Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

表現教育の可能性

 

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若い頃、会社の上司によく演劇に連れて行ってもらった。新宿赤テントなど怪しげな芝居から井上ひさしの作品まで様々な芝居を見た。自分で言うのも何だか、おとなしい性格であった私にとって、舞台の上で泣いたり、叫んだりする俳優さんは別世界の住民と思っていた。何より演技というものが作りもので嘘くさいと感じてしまった。

しかし、いま教育の場で演劇教育(表現教育)の可能性がふくらみつつある。福島県いわき総合高校を舞台に繰り広げられてきた実践が『演劇教育:高校生が生きやすくなるための』(いしいみちこ著、立東舎)で紹介されている。

演劇を取り入れた目的だが、そもそもプロの俳優を養成するわけではない。いわゆるアクティブラーニングの仲間だと思う。演劇というとややイメージが狭いが、むしろ表現教育と言ってよい。これによってコミュニケーション能力を鍛えることができるのだ。

表現教育の基礎は身体作りから始まる。これまでの教育で、身体作りは体育という教科でのみ実施されてきた。しかし、そこで鍛えるのは基本、身体(あとは根性?)だけ。実は身体と心はつながっている。頭と心は別々に鍛えてもダメ。私は読書が好きだが、イメージの世界だけでは、痛みや苦しみを肌身で感じることがない。イメージを実現するためには現実で格闘する必要があるのだ。身体を動かすことによって人は自らの限界を知ることができる。そして、身体の変化はわかりやすい。そして達成感もあるので、高校生に対して自己肯定感を与えることができるのだ(私も心を身体をつなげよう!)

 コミュニケーションとは、相手の様々な情報を受け取りながら、自分も情報を発信し、お互いにあれこれ交渉して、第3の新しいものをつくりだすことだ。日本では、同調圧力が強くて、人と違うことを恐れ、毛嫌いすることが多い。しかし、より良い社会を作るためには様々な違いが必要だというのは生物界の事実だ。社会で生きるための力をつける教育。言葉だけではなく、心と身体をつかうということ。教育の場でやれることは、まだまだあると思う。