Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

音楽へのリベンジ、それとも渇望

学校教育で嫌だった教科といえば、「体育」そして「音楽」だ。

そもそも運動を学ぶことにどのような意味があるのか、わからない。スポーツは好きな人が楽しくやればいいことだ。どう考えても「国家を強くするため」という古い時代の教育を引きずっているとしか思えない。私のようなインドアで虚弱だった子にとって、武道や水泳の授業は「拷問」でしかなかった。

 

いや、ここで取り上げるのは「音楽」教育の方だ。前回書いたように日本の音楽教育は「美術」教育と同じく知識偏重、教養重視というものだった。クラシック音楽を鑑賞し、難しい楽典を勉強させられる。昭和の子どもの多くは学校の「音楽」と普段耳にする歌謡曲とを別物として意識していたと思う。

 

中学時代、「音楽」の授業は嫌いだったけれど、家で楽しむ音楽は好きだった。井上陽水QueenのLPレコードは持っていた。当時、FM放送の番組を紹介する雑誌が数誌あり、「エアチェック」と称して、カセットテープに好きな曲を録音したものだ。70年代から80年代の洋楽はほぼ聴いてきた。大学に入り、自由な時間が増えると聞くだけでは飽き足らず、何か楽器をやろうと思うようになった。洋楽ファンだったので軽音楽部を想定していたが、何の間違いか古典ギター部に入部していた。取り上げる曲はほぼほぼクラシックだ。バッハには馴染めなかった。ここでも私の音楽欲は満たされなかった。

 

不思議なことに大人になるとますます音楽への渇望はますます膨らみ、音楽教室や個人レッスンに通ったりした。研究で一年間イギリスに滞在した時は、家のそばの楽器店で壁のメッセージボードに貼られた生徒募集の紙を見て、英国人の先生からクラリネットを教わった。レッスン前にはなぜか必ず甘いコーヒーを入れてくれた。

 

私の演奏への渇望は今も続いている。そして最近、出会った本が『作曲少女』『作曲少女2』だ。学園ものライトノベル風でかわいい表紙に若干戸惑いながら、読むと何と自分でも作曲ができるのではと思わせてくれる内容だ。五線譜とか理論は後で勉強すればいい。音に対する感性を高めることが大事。ピアノの鍵盤に「顔マーク」をつけるというアイデアは実に面白い。それぞれの音には個性があるのだ。まずは「耳コピ」の技術を身につけることが大切だという。好きな曲をじっくり聞き、メロディーをつかみ、音を一つずつ拾っていく。これをパソコンにダウンロードしたソフトを使って入力していく。これなら私も楽しくできそうである。

 

結局、習うより慣れろ、左脳より右脳、やる気が一番ということになるか。押し付ける教育はもはや教育ではない。気持ちが動いた時に学べばよい。

 

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