Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

突撃インタビュー「19世紀激動のパリへ」

「突撃取材:19世紀激動のパリへ」
 12月、高校世界史で楽しい(?)課題プリントをやってもらいました。フランス革命の余波がヨーロッパ各地に及び、様々な民族・職業の人々の心を揺さぶります。そこで19世紀パリに派遣された君に偉人へのインタビューを依頼した、という設定。
 一人目のターゲットは、1830年、祖国ポーランドを離れ、パリ滞在中のショパン。その直前にロシア支配からの独立をめざす祖国の独立運動が弾圧され、怒りと深い悲しみで絶望し、ピアノ曲『革命』を作った。以下、生徒の回答例です。
 質問 「2021年の世界ではショパンコンクールというピアノのコンクールが開催されていますが、日本人が優勝するのがとても大変なコンクールです。どうすれば優勝できますか」                                          
「自身の楽曲は、自分の生きてきた時代背景や当時の葛藤などが込められているものが多い。その時代背景を学び、何を聴衆に伝えたくて演奏したのかを想像し、自分がその思いをどのように演奏し聞かせたいのかを考え演奏してみるとよいと思う。
 ➡リアルな時代認識と表現の工夫という核心をついています。
質問 「ポーランドの独立を実現するためには、どうすればいいと思いますか?」
「フランスのように共和政にしたらいいと思うが、そのためには他のヨーロッパ諸国の力を借りなければ難しいと思う・・・。」
 ➡リアルな国際政治を押さえた回答。
 きちんと歴史背景を押さえた上で発想を飛ばし、時間と空間を超える脱線があって楽しい!歴史の勉強は想像を広げ、見知らぬ人々の生活に寄り添うことですな。
 

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曖昧さの豊かさ

新聞のデジタル版に、作家の小川洋子さんが自分の作品「ことり」を使った入試問題(「国語」東北大)を解いてもらうという記事があった。
架空の話に登場する人物の心情を説明するわけだが、正解などもとよりない。そして、小川さんの解答と予備校の解答例が示される。そこで気づいたのは、予備校の解答例の方が人物の心情をより詳しく表現していることだ。一方、作者である小川さんの解答例はどことなく叙情的であいまいさが残っている。
この違いは小説の中のことばが何を伝えようとしているのかについての理解だ。予備校の例はあくまで小説の一節を手掛かりにあらゆる情報をあつめて整理したものだ。小川さんは解答例にすら、余白が残ってしまっている。
そもそも小説は何かの情報を伝えるために書かれてはいない。つまり「非情報的」なものを感じてもらい、読者が世界を広げていければいいだけだろう。
その意味で入試に小説を使うのは情報を読み取る作業としては不適なのだろう。ただ、小川さんの度量は広い。入試問題に採用されたことを問われ、「曖昧さに耐えつつ、答えとして何かを絞り出す。言葉に対する信頼や執念を問うのが、小説の入試問題」だと答えている。受験生が短時間でそこに到達するのは難しかろう。しかし、小川さんは言う、この問題で登場人物に心を寄せたこと、「その体験が何らかの形で記憶に残ってほしい」と。
小説のちからを信じる者の言葉である。
 

学校文化になじめない教師

 新型コロナのあおりで日本語学校校長の仕事を失い、臨時任用として、公立高校で社会科を教えている。3年生が引退した今、授業数も減り、職員室で周りを観察することがある。

 そもそも学生時代も学校には楽しい思い出はない。体罰当たり前の中学時代はまさに地獄。高校は比較的自由だったが、嫌な体育教師のおかげで暗い思い出もかなりある。

 そして、いま教員として高校にいると、体罰こそなくなったが、あの「学校文化」はしっかりと感じる。その代表が「生徒指導」というやつ。田舎の高校ゆえか、いまだに服装チェックが行われている。「オシャレは今は我慢しろ」と。学校という場が従順な人間、創造性のない人間を育てている。その結果、授業での生徒もおとなしく聴くだけ。発言することは稀だ。

 何人かの生徒にとって学校は楽しくないかも知れない。それはいいことか。その生徒は保健室に行くしかない。そして「問題」のある生徒として扱われる。何か変だ。

そして、部活。私自身、中高通じて帰宅部。でもこの高校では自宅生は「ちょっと問題」となる。「どうせ、家にいてもダラダラしているはず。」いや、自主性を摘み取ったのは学校でしょう。自分の好きなことに時間を使えないのは不幸だ。日本の学校文化はおかしい。

 生徒にもアフタースクールがあっていいはず。私も帰宅後、存分に読書した。教員自体、学校に残りすぎではないか。早く帰って家族と過ごす時間を持とう。自分の視野を広げる時間を。

 

 

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音楽と戯れたい

TV番組で花火大会の映像(過去の)が流れていた。コロナウイルスの影響で夏の風物詩が楽しめなくなり、映像だけでもということか(ほんの少しだけ癒されたが)。
その中に災害復興を祈念する数回の花火大会の映像が流されたが、そのどれもBGMに平原綾香さんの「ジュピター」が使われていて違和感を感じた。確かにこの曲を聴くと厳粛な気持ちになるし、平原さんの声も説得力がある。しかし、復興祈念花火大会のBGMは必ずこの曲でなければいけないのか。「音楽」が「感動」の名のもと、安易に使われているのではないかと思ってしまう。
どんなに素敵な音楽も機械的に扱われたら、その価値は半減する。
そもそも「音楽」とは人にとってどのような存在なのか?「教養」としての音楽を押し付けられることの苦痛は以前書いた。「教養」とか「経済」の論理とは違った次元で音楽と戯れるようなことがもっと日常にあっていいと思う。というか、戯れたいと切に願っているのだが・・・。
 
 

音楽へのリベンジ、それとも渇望

学校教育で嫌だった教科といえば、「体育」そして「音楽」だ。

そもそも運動を学ぶことにどのような意味があるのか、わからない。スポーツは好きな人が楽しくやればいいことだ。どう考えても「国家を強くするため」という古い時代の教育を引きずっているとしか思えない。私のようなインドアで虚弱だった子にとって、武道や水泳の授業は「拷問」でしかなかった。

 

いや、ここで取り上げるのは「音楽」教育の方だ。前回書いたように日本の音楽教育は「美術」教育と同じく知識偏重、教養重視というものだった。クラシック音楽を鑑賞し、難しい楽典を勉強させられる。昭和の子どもの多くは学校の「音楽」と普段耳にする歌謡曲とを別物として意識していたと思う。

 

中学時代、「音楽」の授業は嫌いだったけれど、家で楽しむ音楽は好きだった。井上陽水QueenのLPレコードは持っていた。当時、FM放送の番組を紹介する雑誌が数誌あり、「エアチェック」と称して、カセットテープに好きな曲を録音したものだ。70年代から80年代の洋楽はほぼ聴いてきた。大学に入り、自由な時間が増えると聞くだけでは飽き足らず、何か楽器をやろうと思うようになった。洋楽ファンだったので軽音楽部を想定していたが、何の間違いか古典ギター部に入部していた。取り上げる曲はほぼほぼクラシックだ。バッハには馴染めなかった。ここでも私の音楽欲は満たされなかった。

 

不思議なことに大人になるとますます音楽への渇望はますます膨らみ、音楽教室や個人レッスンに通ったりした。研究で一年間イギリスに滞在した時は、家のそばの楽器店で壁のメッセージボードに貼られた生徒募集の紙を見て、英国人の先生からクラリネットを教わった。レッスン前にはなぜか必ず甘いコーヒーを入れてくれた。

 

私の演奏への渇望は今も続いている。そして最近、出会った本が『作曲少女』『作曲少女2』だ。学園ものライトノベル風でかわいい表紙に若干戸惑いながら、読むと何と自分でも作曲ができるのではと思わせてくれる内容だ。五線譜とか理論は後で勉強すればいい。音に対する感性を高めることが大事。ピアノの鍵盤に「顔マーク」をつけるというアイデアは実に面白い。それぞれの音には個性があるのだ。まずは「耳コピ」の技術を身につけることが大切だという。好きな曲をじっくり聞き、メロディーをつかみ、音を一つずつ拾っていく。これをパソコンにダウンロードしたソフトを使って入力していく。これなら私も楽しくできそうである。

 

結局、習うより慣れろ、左脳より右脳、やる気が一番ということになるか。押し付ける教育はもはや教育ではない。気持ちが動いた時に学べばよい。

 

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アート思考について

小中学校で受けた「音楽」と「美術」の授業は楽しかったですか。

私の場合、音楽の授業は苦痛以外の何物でもなかった。クラシック音楽の鑑賞はともかく、小難しい音楽理論までテストされた。要するに西洋古典音楽の知識を強要させられたのだ。面白いハズがない。一方、美術の授業は作品制作が主で、テストなどで知識を問われることはなかった。私の「音楽嫌い、美術好き」はこうして決まった。

美術館にはよく行くが、名画を前にしたとき、何をするか。まずタイトル・作者を確認、説明文があれば、それも読む。そして作品を眺める。

「素晴らしい絵だな。やはりモネの絵は。」

モネの絵だから「素晴らしい」のか。実はその「素晴らしさ」は曖昧だ。

 『13歳からのアート思考』(末永幸歩著)は、「正解」を前提としない美術教育の話である。そもそも「素晴らしい作品」とはどのようなものなのか。アート作品の「見方」とは。アートは美を追求するものなのか…。多くの疑問が出てくる。

 この本が優れている点は、指摘されたことがアートにとどまらず、ビジネスや教育一般にも適応できることだ。先が見えない時代、「答え」は常に変化している。だから、自分なりの視点を持ち、自分で考える必要があるのだ。アートは、そうした思考を鍛える上で格好のフィールドであると言える。

 本の冒頭にモネの『睡蓮』が提示されている。「何が見えますか。」

 印象画の特徴は…などとウンチクを傾けてはいけない。

池の中に「かえる」がいることに想像を広げることができるか。目に見えない存在、絵には描かれていない存在に思いを致すこともアート思考なのだ。知識詰め込み型の教育を受けてきた者にとって、正直これはキツイ作業である。でも面白い。

 著者は「美術なのに、あたかも「正解」があるような教育システムになっている」と、これまでの日本の美術教育を批判している。「美術なのに」という表現を納得することはできるが、他の科目(理系はさておき)についてもあてはまるように思う。学習者に「正解」を求める教育は、自分の頭で深く「考える」機会を奪ってしまう。「正解」が出せたら、それで満足してしまい、思考停止になる。こんな日本人は多い。自分なりの答えを導くための思考のプロセスが大事なのである。だから正解を試すためのテストはあまり重要ではない。

アート思考を美術以外の教育にどのように応用できるか、考えてみたい。

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人は「無機物」になろうとしている!?

 人は「無機物」になるのか?

 

新型コロナの流行で過去の疫病流行に関心が向き、人類がどう対処してきたのかという関心が高まった。文化人類学的な関心からは祇園祭や話題の「アマビエ」などが疫病退散を祈願したものがあり、歴史上の例には事欠かない。また医学の発達という視点からすれば、多くの感染症との「闘い」というストーリーが描かれるだろう。しかし、新型コロナもそうだが、ウイルスに起因する病気に対して人々が持っている有効な方法はワクチンだけだろう。朝日新聞生物学者福岡伸一氏の投稿があった。彼は生命としての身体という視点から、私たちのもっとも近くにある自然とは自分の身体であり、決してそれを制御することはできないと断言する。そして、今回の新型コロナウイルスに対してワクチンが開発されるとともに、自然に宿主の側で免疫を獲得していくことで、やがて常在的な風邪ウイルスと化していく。福岡氏はウイルスに対してAIやデータで制御することに反対し、長い時間軸でリスクを受容しつつ、ウイルスとの動的均衡をめざすしかないという。

 私も基本的に福岡氏の意見に賛成である。体調を崩し、薬を飲んでも良くないなかったという経験のある人なら、自分の身体が「生物」であり、謎にみちていることは容易に理解できるだろう。

 

 進化の最終形は「無機物」か?

 

ところが、最近読んだロボット研究者(石黒浩)が書いた本によると、人間は今、「無機質」になろうとしているのではないか、という。複雑な分子構造を持つ有機物は環境適応性が高いけど、壊れやすくて、タンパク質でできていると120年が限界である(それだけ生きれば十分だと思うが…)。だから無

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機物の知的生命体になることをめざしてロボットを研究しているのだ。ここまでくると、SFの世界のようだが、もはや空想ではなく現実化しつつあるのだ。

道は二つ。とことん、生き残るためにロボット化していくのか、それともウイルスなど自然との共存をはかりつつ、謙虚に生きるのか。