Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

「社会への信頼」があるか?

昨晩、SWITCHインタビューというテレビ番組でブレイディみかこさんと鴻上尚史さんとの対談を見た。
 もっとも印象的だったのは、フレイディさんが指摘した「社会への信頼」が必要だということ。何か困った時、他人と違う行動を取った時、周りの誰かがサポートしてくれるかどうか。今の日本では無視されるか、逆に非難されかねない。政治や教育などに関わる人たちを信頼できるか?これは本当に大切なことがと思う。鴻上さんも「社会への信頼」という言葉に深く頷いていた。
 「日本とイギリスのどちらが好きですか?」という質問に対して、ブレイディさんははっきり「イギリス。日本には戻らない。」と答えた。イギリスは「社会への信頼」が持てるからだという。ケン・ローチ監督の近年の映画に描かれているようにイギリスにおける貧富の差は酷いし、民族差別もある。しかし、イギリスはこうした問題を解決しようという人々が多く存在する社会なのだ。より良い社会にするために戦うことができる社会だという。
 日本は依然として同調圧力に満ちた「世間」があらゆる組織にはびこっている。真正面からの戦いはなかなか困難だ。異質な人や考えを排除しないような、嘘をつかない「信頼できる社会」をどのようにしてつくるか。教育から変えていくしかない。

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あさイチに平川理恵さんが出演!

あさイチ広島県教育委員長の平川理恵さんという方が出演していた。あのリクルートで抜群の営業成績をあげ、民間出身の校長をつとめて学校改革の第一線で活躍されている方だ。
 図書館改革(寝ころがれる!)、校内にフリースクールを設置、上意下達の廃止など、子ども一人ひとりに応じた学びができるような学校づくりを実行してきた。
 その一つの形が全寮制の県立広島叡智学園だ。中高一貫校だが公立なので中学3年間は無料。海外で活躍できるようにほとんどの授業は英語で行われ、これから海外からの高校生も入ってくるという。
 子どもを一つの基準で評価(テストの成績など)しない姿勢、自立した学習者として育てていくあり方はすばらしい。何より様々な場面で多くの選択肢を用意している点がいい。
 実は叡智学園は国際バカロレアの認定校なのだ(番組では紹介されなかったが)。バカロレアの素晴らしい考えが、どんどん日本の公立校で実践されてきているのだ。
 ブラック校則、成績優先主義、内申書重視など古い日本の義務教育のもとで育った私は犠牲者であったと思う。まるで兵士を訓練するかのような教育だった(公立高校は自由があったが)。日本が変わるためには国際バカロレアやイエナ教育の大胆な導入が必須だ。

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海外での子育て、そして在日外国人の子育て。

 子どもが小学生のころ、イギリスに9カ月間、滞在した。あちこち電話をかけまくり、受け入れてくれる学校を探したところ、カトリック系の小学校がOKしてくれた。副校長と面談したら、「翌日から来ていいよ」と言われて何と優しい学校なのだろうと感動したものだ。日本だと役所の手続きが大変だと思う。
 まず驚いたのは低学年の場合、児童たちは自由に床などに座って授業を受けること。日本のように教壇に先生が立ち、子どもはきれいに並んだ机に大人しく座る必要がない。そもそも、低学年の子どもに動くなとかしゃべるなという方が無理でしょう。それから、教室にくだものを入れたかごが置いてあり、いつでも食べられるということ。
 さて、長期間、海外で子育てをするとなると、高学年になるに従い、いじめや学習面などさまざまな出来事が起きると思う。最近読んだ本2冊は、海外現地校での子育ての経験談である。

 

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本は、イギリス地方都市の底辺中学校での母親と息子との悪戦苦闘がユーモアと批判に満ちた文で書かれた傑作だ。人種差別、貧困などイギリス社会の厳しい現実の中で逞しく育つ子どもに感動する。
 一方、中島さおり『哲学する子どもたち』は、フランスの中学校に入学した子どもと母親の話の本だが、フランスの教育事情について詳しく書かれている。タイトルにもあるように、フランスの学校で学ぶ子どもたちは「考える」ことを常に求められる。「哲学」は偉大な哲学者の思想を習うのではなく、様々な事柄を「哲学する」ことなのだという。この本は日本の教育の欠点を知る上で大いに参考になる。

 学校文化や教育制度は国によって大きく異なる。経済が停滞している現在、日本人が海外で子育てをする人はこれから減るかもしれない。しかし、日本に来る外国人は年々増加しており、日本で教育を受ける子どもたちも急増している。というか、日本に暮らす海外出身の子どもたちはきちんとした教育を受けられないでいる。まず、教育を受ける権利を海外出身の子どもたちに保証することが大切だ。
 それにしても、日本の学校教育は海外の人にとって魅力ある内容になっているのだろうか…。

 

「わけがわからない」ことが面白い!

「わけがわからない」ことが面白い!これは学ぶことにおいて大切なことだと思います。
 実は私は40代になって初めて村上春樹の小説が面白いと感じるようになりました。それは彼の小説がよく「わからない」からです。
 今、川上未映子との対談集『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んでいますが、その中に村上自身の言葉ではっきりと述べられています。

 「いわゆる私小説作家が書いているような、日常的な  自我の葛藤みたいなのを読むのが好きじゃないんです。」

 「頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがない…物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって…」

 「(川上)それはいわゆる「この本を読んだら感動できる」とか「泣ける」といった、共感を約束するものではないじゃないですか。」

 「全然。」「感動なんかできない。泣けもしない。
むしろ、なんだかワケがわかんなくなるかもしれない。」

 村上は近代的自我をわざと避けています。それは、「地下一階」の「クヨクヨ室」の世界。彼はその下にある「地下二階」の古代的な無意識の、洞窟のような世界を描こうとしているようです。だから、時として小説では「わけがわからない」ことが頻繁に起きます。

 村上の小説を面白いと感じる人もいれば、そうではない人もいる。でも「わからないこと」の先にこそ新しい発見があるように思います。日常のレベルであまり「クヨクヨ」しても仕方ない。もっと深い部分で感じたり、考えたりすることが楽しい。そんなことを村上春樹は教えてくれます。こんなところに普遍的な価値があるのかもしれません。

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本当は実用的な「哲学的思考」

12月も半ば。しかし海外では抗議の声を上げている人々がいる。フランスの年金改革、香港の民主主義、気候危機…。
 なぜ声を上げるのか?それは、今の社会状況が人々の幸福をダメにしていると考えたからだ。日本人は、幸福は個人的で主観的なものと思いがちである。しかし、世界の多くの人は幸福は「感じる」ものであると同時に、「考える」ものだと思っている。
 フランスの高校生は大学に入るためのバカロレア試験で哲学科目を学ばねばならず、「幸福」は哲学の重要なテーマなのだ。そして、フランス人が哲学で学ぶのは、思考の訓練であり、哲学的に考える技術は、幸福に生きるための武器を与えてくれるという(坂本尚志『バカロレア幸福論』星海社)。教育を通して、彼らはこうして「思考の型」を身につけていくが、同時に自分の頭で「考える」ことにもなる。
 「幸福とは?」「人生の目的とは?」
 答えのなさそうな、問いではあるが、実は生きていく上で、とても大切で実践的な問題だ。哲学的思考は、本当は実用的なツールだということが日本人にはよくわかっていなかった。徹底的に考え、言葉で表し、他人と議論し、行動する。西洋社会が培ってきた教育文化から学ぶものは多い。国際バカロレアが日本でも広がりつつあるが、形式ではなく、哲学的思考をしっかり取り入れることが重要だろう。

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「校則」をなくす~学校が楽しいかどうか

最近、自分は「教えない」ことが好きなのかも知れないと感じている。いや、正確に言うと、学生が自分の考えを嬉々として話し、その内容を楽しんでいるのだと思う。
 「教える」ことよりも、学生が自ら考えて、意見を言うこと、その環境を整えることが教育で一番大切なのではないか。
 これまで日本の学校教育は先生が学生に対して「上から」知識を教えるという形が普通で、話を聞かず、騒ぐ学生には大声で「静かに!」と命令するのが日常風景だった。
 こうした教育がおかしいと考える人が増え、日本の学校にも海外の先進事例を取り入れたオルターナティブスクールが少しずつ増えている。そして、日本の普通の学校でも、独自の方法で優れた成果を挙げている。
 『校則をなくした中学校 たったひとつの校長ルール』(西郷孝彦、小学館)という本に、東京世田谷区の桜丘中学校の話が紹介されている。とにかく、西郷校長がひたすら「子どもたちが中学校の3年間を楽しんでほしい」という姿勢に徹していることがわかる。楽しいから学校が自分の「居場所」になる。
 そして、書名にもあるように、この中学は、校則はない、服装は自由、定期テストはない、いつ登校してもよいなど、型破りである。自由であることによって、逆に生徒自らが考えることを強いられることになる。校則というルールがあると、先生も生徒も思考停止して、命令と服従という関係しかなくなり、学習意欲の低下やいじめ、不登校などの問題が発生する。
 この中学校の取り組みの優れている点は、生徒一人ひとりの個性を大切にしていることだろう。学校では、成績や運動能力などが優れていることが良しとされる。でも、子供たち一人ひとりの得意なことは違うし、将来の活躍も成績だけではわからない。子どもが「楽しく」学べるための工夫や努力が具体的に書かれている。
 変えようという意思さえあれば、こんな素敵な学校がつくれるんだという大きな力をもらえた。おススメの一冊!

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思考の「脱線」

「美人」「美男子」は民族や時間を超えるか?
 あるある話で、日本人女性と西洋人男性との夫婦は多いが、その逆は少ない、というのがある(本当かな)。ある人を好きになるのは、顔だけではないが、一般論として美人とか美男子という人は確かにいるし、目や鼻や口の配置などのバランスがとれていて、ある種の基準はありそうだ。
 『世界史のミカタ』(井上章一佐藤賢一)という本に、2500年前の西洋の彫刻を見て、美人だと感じるし、パリのルーブル美術館の絵画に描かれた美人と周囲を歩いている美人を見比べるとあまり変わらない。しかし、日本の高松塚古墳に描かれた女性、江戸時代の浮世絵の美人は長すぎる顔・つり目・小さすぎる口など現代人にしたら美人とは言えない、ということが書いてあった。
 ここでのポイントは、西洋では古代から美人の基準は変わっていないのに、日本では時代によって美人の基準が変わった、という点が一つ。ただ、反証として、奈良の興福寺の阿修羅像の美少年ぶりに「まいってしまう」現代人は多い、ことが書かれている。結局のところ、日本でも美しさの基準はそれほど変わっていなく、近代以前の日本では三次元ではリアルな顔を再現できたが、二次元で整った顔立ちを描く能力がなかったというだ。
 そして、なぜ日本や中国では二次元で描く能力がなかったのか(なぜ西洋では可能となったのか?)という問いが投げかけられている。明確な答えはなく、ただ、西洋美術には高い普遍性があるのかも知れないとだけ述べられている。

 このテーマはさまざまな話に「脱線する」ことができる。
①今でもマンガやアニメなど日本人は二次元での表現が好きだ。「リアルさ」よりも省いたり、誇張したりするのを好むのか。
②生物学的に考えることもできる。動物の世界でも「美人」はいるのか。大陸世界では混血が進むが、島国ではそれほど進まないという点の違いはあるのか。

 大学で教えていた時、授業のはじめの5分位をつかって、いろいろな脱線話をして、学生の笑いを誘ったが、実は授業の本題でも、もっと脱線してもよかったと思う。教育とは物事を一つの視点でなく、自分の想像を膨らませ、思考することが大切だから。
 「脱線する」ことが思考力をつける。

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