Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

手話という言語

もしかしたら今年一押しの本になるかも知れない。私自身の視野を大きく広げてくれる本だった。

斎藤道雄『手話を生きる:少数言語が多数派日本語と出会うところで』(みすず書房)がそれだ。手話やろう者についてまったく知らなかった。

 

この世界は「ろう」と「聴」でできている。生まれつき「聞こえない」人にとって、「聞こえる」っていうのがどういうことか想像すらつかない。だから「聴」はまったく別の世界の人なのだ。先生から病気や事故で中途失聴者になることがあると聞いて、ろうの子は心配になる。自分も境界をこえて「聴」になることがあるのかと。でもそれはないと知り、ろうの子は安心する。

 

アメリカにある世界唯一のろう者の大学、ギャローデッド大学での体験は作者にとって衝撃的であった。食堂での光景。昼時で混雑していた。そこでは誰も声を出していないのに、笑い声や食器の音が響く。無数の「手の洪水」がそこにはあったという。きっと授業やきのうのテレビのことなど会話を楽しんでいるのだろう。それが時間とともに少しずつ人の会話として見えてきたという。ろう者は「聴覚障害者」ではなく、誰とも会話のできない自分が「言語障害者」だったと気づく。こうして「手話は言語だ」という皮膚感覚が一つの知識体系へと変わっていったという。

 

日本のろう学校では長いこと、ろうの子が話せるようになることを目指して教育がなされてきた。そして、手話は禁止された。社会への参加が求められたのだ。その「社会」とは、あくまでも健常者中心の社会である。

 

驚いたことによくテレビなどで見かける手話は「日本語対応手話」といい、日本語の一部を手で表現したもので本質的に日本語である。ろう者がこれを見ると、きわめてわかりづらく、疲れてイライラするという。一方、自然言語である「日本手話」は複雑な内容も表せるし、豊かな表現もできる「完全な言語」なのだ。それにも関わらず、ろう学校やろう者の団体は、「日本手話」を「みっともない」「田舎の手話」などと蔑み、「日本語対応手話」こそが「正しい」手話だと思ってきた。そこには「健常」であることを「正しい」と考える価値観が強く作用していたのだ。

 

1995年、日本のろう者の在り方を根底から変えた「ろう文化宣言」が出された。

「ろう者とは、日本手話という、日本語とは異なる言語を話す、言語的少数者である。」

 

身体的視点ではなく、社会的・文化的視点から、ろう者をとらえたものだ。私たちの視点ひとつで社会から差別を減らすことができる。

 

本書の後半は、補聴器などを使えば、会話ができるろう者が、あえて声を出さず、手話を使う道を選択する話が出てくる。手話という少数言語を使うことで、彼はアイデンティティを維持した。他方、声を出せと言い続ける「聴」者のアイデンティティは無傷なままなのだ。

さまざまな場面で主流と非主流の力のアンバランスは存在する。
あなたは「主流に合わせて」生きますか?

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旅先で村上と出会う

コロナウイルスが広がる前、英国のエジンバラに行った。いつも、どこを見て回るかは皆で話し合って決める。その日は娘がお洒落な雑貨屋さんに行きたいとのこと。
 
 エジンバラ城から少し下った坂道の途中に、その店はあった。フレンドリーな若い女性店員さんがいた。目に留まった商品はパスケース。革製でデザインが秀逸である。ちょうど本棚に本が並んでいるような。そして背表紙には本のタイトルまでがちゃんと書かれている。

 その中に何と村上春樹のタイトルがあったのだ!すぐさま店員さんにそのことを話し、私は村上のファンだと伝えたところ、彼女も村上文学が好きだという。そこから、村上ワールドの深さ、ファンタジーの面白さなどを話し合った。拙い英語ではあるが、好きな内容について笑顔を話し合えたという経験は本当に良い旅の思い出になった。

 その光景を横で見ていた、ほとんど本を読まない息子はどう思ったであろうか。「読書ー旅先での出会い」という、インターネットでは味わえない経験は尊いのだよ。

 

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時々空気が読めない

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講談社現代新書の旧版の表紙デザインは奇抜だった


 家族で居酒屋に行くことがある。カウンターなどで主人と話をして盛り上がることもままある。しかし気分よく帰宅の途に就く道すがら、しばしば、かみさんから叱られる。あのセリフは主人に対して失礼だったよ、と。無論、こっちに悪気はなかったのだが…。

 演劇教育といえば、平田オリザの名をまず挙げるべきだろう。『下り坂をそろそろと下る』などの本を読み、その見識に深く共鳴してきた。そして、彼の演劇論が気になり、『演劇入門』を読んだが、実に面白かった。

 この本は、俳優を目指す人を対象にいちおうは書かれているが、その視野は広く深い。教育の場でも十分に生かせる知見が満載である。演劇の「リアル」とは何か?演劇が発生する場とは?対話を生むために。このように演劇を広い視点から解説している。

 昨今、教育の世界ではコミュニケーション能力が強調されることが多いが、そもそも日本語は対話が苦手な言語であると平田氏は言う。これは日本の歴史的背景が関係している。日本は島国であったことに加え、安土桃山以降の約300年もの間、ふつうの庶民は藩の中で一生を過ごすという、きわめて流動性の低い社会であった。そこにあるのは、同化を促進する「会話」だけで、「差異」を許容するような「対話」が発達することはなかったのだ。

 「対話」とは、それぞれ異なる文化を持つ人が自分の考えを主張しつつも、相手の意見に

も耳を傾け、互いに折り合いをつけていること。つまり、コンテクスト(文脈)の摺り合わせである。演劇における「リアル」とは、このコンテクストの共有あるいは新しいコンテクストの生成なのだという。話している者同士のコンテクストがずれてしまうと、演劇は「リアル」ではなくなるし、場の空気が読めない、などと言われることになる。

 これはまさに俳優となるための条件でもある。平田氏が新人俳優を選抜する条件として3点あげている。

 1 コンテクストを自在に広げられる

 2 私に近いコンテクストを持っている

 3 非常に不思議なコンテクストを持っている

 

 俳優になるための条件のうち、2はあくまで個人的なことなので除外するが、1と3はある程度、教育の場でも適用できるように思う。仲間内だけの「会話」から、自分とは違う人との「対話」の機会をもっと増やすことが大切だ。その経験は豊かな学びに結実していくだろう。

表現教育の可能性

 

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若い頃、会社の上司によく演劇に連れて行ってもらった。新宿赤テントなど怪しげな芝居から井上ひさしの作品まで様々な芝居を見た。自分で言うのも何だか、おとなしい性格であった私にとって、舞台の上で泣いたり、叫んだりする俳優さんは別世界の住民と思っていた。何より演技というものが作りもので嘘くさいと感じてしまった。

しかし、いま教育の場で演劇教育(表現教育)の可能性がふくらみつつある。福島県いわき総合高校を舞台に繰り広げられてきた実践が『演劇教育:高校生が生きやすくなるための』(いしいみちこ著、立東舎)で紹介されている。

演劇を取り入れた目的だが、そもそもプロの俳優を養成するわけではない。いわゆるアクティブラーニングの仲間だと思う。演劇というとややイメージが狭いが、むしろ表現教育と言ってよい。これによってコミュニケーション能力を鍛えることができるのだ。

表現教育の基礎は身体作りから始まる。これまでの教育で、身体作りは体育という教科でのみ実施されてきた。しかし、そこで鍛えるのは基本、身体(あとは根性?)だけ。実は身体と心はつながっている。頭と心は別々に鍛えてもダメ。私は読書が好きだが、イメージの世界だけでは、痛みや苦しみを肌身で感じることがない。イメージを実現するためには現実で格闘する必要があるのだ。身体を動かすことによって人は自らの限界を知ることができる。そして、身体の変化はわかりやすい。そして達成感もあるので、高校生に対して自己肯定感を与えることができるのだ(私も心を身体をつなげよう!)

 コミュニケーションとは、相手の様々な情報を受け取りながら、自分も情報を発信し、お互いにあれこれ交渉して、第3の新しいものをつくりだすことだ。日本では、同調圧力が強くて、人と違うことを恐れ、毛嫌いすることが多い。しかし、より良い社会を作るためには様々な違いが必要だというのは生物界の事実だ。社会で生きるための力をつける教育。言葉だけではなく、心と身体をつかうということ。教育の場でやれることは、まだまだあると思う。

「社会への信頼」があるか?

昨晩、SWITCHインタビューというテレビ番組でブレイディみかこさんと鴻上尚史さんとの対談を見た。
 もっとも印象的だったのは、フレイディさんが指摘した「社会への信頼」が必要だということ。何か困った時、他人と違う行動を取った時、周りの誰かがサポートしてくれるかどうか。今の日本では無視されるか、逆に非難されかねない。政治や教育などに関わる人たちを信頼できるか?これは本当に大切なことがと思う。鴻上さんも「社会への信頼」という言葉に深く頷いていた。
 「日本とイギリスのどちらが好きですか?」という質問に対して、ブレイディさんははっきり「イギリス。日本には戻らない。」と答えた。イギリスは「社会への信頼」が持てるからだという。ケン・ローチ監督の近年の映画に描かれているようにイギリスにおける貧富の差は酷いし、民族差別もある。しかし、イギリスはこうした問題を解決しようという人々が多く存在する社会なのだ。より良い社会にするために戦うことができる社会だという。
 日本は依然として同調圧力に満ちた「世間」があらゆる組織にはびこっている。真正面からの戦いはなかなか困難だ。異質な人や考えを排除しないような、嘘をつかない「信頼できる社会」をどのようにしてつくるか。教育から変えていくしかない。

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あさイチに平川理恵さんが出演!

あさイチ広島県教育委員長の平川理恵さんという方が出演していた。あのリクルートで抜群の営業成績をあげ、民間出身の校長をつとめて学校改革の第一線で活躍されている方だ。
 図書館改革(寝ころがれる!)、校内にフリースクールを設置、上意下達の廃止など、子ども一人ひとりに応じた学びができるような学校づくりを実行してきた。
 その一つの形が全寮制の県立広島叡智学園だ。中高一貫校だが公立なので中学3年間は無料。海外で活躍できるようにほとんどの授業は英語で行われ、これから海外からの高校生も入ってくるという。
 子どもを一つの基準で評価(テストの成績など)しない姿勢、自立した学習者として育てていくあり方はすばらしい。何より様々な場面で多くの選択肢を用意している点がいい。
 実は叡智学園は国際バカロレアの認定校なのだ(番組では紹介されなかったが)。バカロレアの素晴らしい考えが、どんどん日本の公立校で実践されてきているのだ。
 ブラック校則、成績優先主義、内申書重視など古い日本の義務教育のもとで育った私は犠牲者であったと思う。まるで兵士を訓練するかのような教育だった(公立高校は自由があったが)。日本が変わるためには国際バカロレアやイエナ教育の大胆な導入が必須だ。

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海外での子育て、そして在日外国人の子育て。

 子どもが小学生のころ、イギリスに9カ月間、滞在した。あちこち電話をかけまくり、受け入れてくれる学校を探したところ、カトリック系の小学校がOKしてくれた。副校長と面談したら、「翌日から来ていいよ」と言われて何と優しい学校なのだろうと感動したものだ。日本だと役所の手続きが大変だと思う。
 まず驚いたのは低学年の場合、児童たちは自由に床などに座って授業を受けること。日本のように教壇に先生が立ち、子どもはきれいに並んだ机に大人しく座る必要がない。そもそも、低学年の子どもに動くなとかしゃべるなという方が無理でしょう。それから、教室にくだものを入れたかごが置いてあり、いつでも食べられるということ。
 さて、長期間、海外で子育てをするとなると、高学年になるに従い、いじめや学習面などさまざまな出来事が起きると思う。最近読んだ本2冊は、海外現地校での子育ての経験談である。

 

ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本は、イギリス地方都市の底辺中学校での母親と息子との悪戦苦闘がユーモアと批判に満ちた文で書かれた傑作だ。人種差別、貧困などイギリス社会の厳しい現実の中で逞しく育つ子どもに感動する。
 一方、中島さおり『哲学する子どもたち』は、フランスの中学校に入学した子どもと母親の話の本だが、フランスの教育事情について詳しく書かれている。タイトルにもあるように、フランスの学校で学ぶ子どもたちは「考える」ことを常に求められる。「哲学」は偉大な哲学者の思想を習うのではなく、様々な事柄を「哲学する」ことなのだという。この本は日本の教育の欠点を知る上で大いに参考になる。

 学校文化や教育制度は国によって大きく異なる。経済が停滞している現在、日本人が海外で子育てをする人はこれから減るかもしれない。しかし、日本に来る外国人は年々増加しており、日本で教育を受ける子どもたちも急増している。というか、日本に暮らす海外出身の子どもたちはきちんとした教育を受けられないでいる。まず、教育を受ける権利を海外出身の子どもたちに保証することが大切だ。
 それにしても、日本の学校教育は海外の人にとって魅力ある内容になっているのだろうか…。