Hiro Education

「考え方」を変えたら、楽しくなる

「わけがわからない」ことが面白い!

「わけがわからない」ことが面白い!これは学ぶことにおいて大切なことだと思います。
 実は私は40代になって初めて村上春樹の小説が面白いと感じるようになりました。それは彼の小説がよく「わからない」からです。
 今、川上未映子との対談集『みみずくは黄昏に飛びたつ』を読んでいますが、その中に村上自身の言葉ではっきりと述べられています。

 「いわゆる私小説作家が書いているような、日常的な  自我の葛藤みたいなのを読むのが好きじゃないんです。」

 「頭で解釈できるようなものは書いたってしょうがない…物語というのは、解釈できないからこそ物語になるんであって…」

 「(川上)それはいわゆる「この本を読んだら感動できる」とか「泣ける」といった、共感を約束するものではないじゃないですか。」

 「全然。」「感動なんかできない。泣けもしない。
むしろ、なんだかワケがわかんなくなるかもしれない。」

 村上は近代的自我をわざと避けています。それは、「地下一階」の「クヨクヨ室」の世界。彼はその下にある「地下二階」の古代的な無意識の、洞窟のような世界を描こうとしているようです。だから、時として小説では「わけがわからない」ことが頻繁に起きます。

 村上の小説を面白いと感じる人もいれば、そうではない人もいる。でも「わからないこと」の先にこそ新しい発見があるように思います。日常のレベルであまり「クヨクヨ」しても仕方ない。もっと深い部分で感じたり、考えたりすることが楽しい。そんなことを村上春樹は教えてくれます。こんなところに普遍的な価値があるのかもしれません。

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本当は実用的な「哲学的思考」

12月も半ば。しかし海外では抗議の声を上げている人々がいる。フランスの年金改革、香港の民主主義、気候危機…。
 なぜ声を上げるのか?それは、今の社会状況が人々の幸福をダメにしていると考えたからだ。日本人は、幸福は個人的で主観的なものと思いがちである。しかし、世界の多くの人は幸福は「感じる」ものであると同時に、「考える」ものだと思っている。
 フランスの高校生は大学に入るためのバカロレア試験で哲学科目を学ばねばならず、「幸福」は哲学の重要なテーマなのだ。そして、フランス人が哲学で学ぶのは、思考の訓練であり、哲学的に考える技術は、幸福に生きるための武器を与えてくれるという(坂本尚志『バカロレア幸福論』星海社)。教育を通して、彼らはこうして「思考の型」を身につけていくが、同時に自分の頭で「考える」ことにもなる。
 「幸福とは?」「人生の目的とは?」
 答えのなさそうな、問いではあるが、実は生きていく上で、とても大切で実践的な問題だ。哲学的思考は、本当は実用的なツールだということが日本人にはよくわかっていなかった。徹底的に考え、言葉で表し、他人と議論し、行動する。西洋社会が培ってきた教育文化から学ぶものは多い。国際バカロレアが日本でも広がりつつあるが、形式ではなく、哲学的思考をしっかり取り入れることが重要だろう。

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「校則」をなくす~学校が楽しいかどうか

最近、自分は「教えない」ことが好きなのかも知れないと感じている。いや、正確に言うと、学生が自分の考えを嬉々として話し、その内容を楽しんでいるのだと思う。
 「教える」ことよりも、学生が自ら考えて、意見を言うこと、その環境を整えることが教育で一番大切なのではないか。
 これまで日本の学校教育は先生が学生に対して「上から」知識を教えるという形が普通で、話を聞かず、騒ぐ学生には大声で「静かに!」と命令するのが日常風景だった。
 こうした教育がおかしいと考える人が増え、日本の学校にも海外の先進事例を取り入れたオルターナティブスクールが少しずつ増えている。そして、日本の普通の学校でも、独自の方法で優れた成果を挙げている。
 『校則をなくした中学校 たったひとつの校長ルール』(西郷孝彦、小学館)という本に、東京世田谷区の桜丘中学校の話が紹介されている。とにかく、西郷校長がひたすら「子どもたちが中学校の3年間を楽しんでほしい」という姿勢に徹していることがわかる。楽しいから学校が自分の「居場所」になる。
 そして、書名にもあるように、この中学は、校則はない、服装は自由、定期テストはない、いつ登校してもよいなど、型破りである。自由であることによって、逆に生徒自らが考えることを強いられることになる。校則というルールがあると、先生も生徒も思考停止して、命令と服従という関係しかなくなり、学習意欲の低下やいじめ、不登校などの問題が発生する。
 この中学校の取り組みの優れている点は、生徒一人ひとりの個性を大切にしていることだろう。学校では、成績や運動能力などが優れていることが良しとされる。でも、子供たち一人ひとりの得意なことは違うし、将来の活躍も成績だけではわからない。子どもが「楽しく」学べるための工夫や努力が具体的に書かれている。
 変えようという意思さえあれば、こんな素敵な学校がつくれるんだという大きな力をもらえた。おススメの一冊!

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思考の「脱線」

「美人」「美男子」は民族や時間を超えるか?
 あるある話で、日本人女性と西洋人男性との夫婦は多いが、その逆は少ない、というのがある(本当かな)。ある人を好きになるのは、顔だけではないが、一般論として美人とか美男子という人は確かにいるし、目や鼻や口の配置などのバランスがとれていて、ある種の基準はありそうだ。
 『世界史のミカタ』(井上章一佐藤賢一)という本に、2500年前の西洋の彫刻を見て、美人だと感じるし、パリのルーブル美術館の絵画に描かれた美人と周囲を歩いている美人を見比べるとあまり変わらない。しかし、日本の高松塚古墳に描かれた女性、江戸時代の浮世絵の美人は長すぎる顔・つり目・小さすぎる口など現代人にしたら美人とは言えない、ということが書いてあった。
 ここでのポイントは、西洋では古代から美人の基準は変わっていないのに、日本では時代によって美人の基準が変わった、という点が一つ。ただ、反証として、奈良の興福寺の阿修羅像の美少年ぶりに「まいってしまう」現代人は多い、ことが書かれている。結局のところ、日本でも美しさの基準はそれほど変わっていなく、近代以前の日本では三次元ではリアルな顔を再現できたが、二次元で整った顔立ちを描く能力がなかったというだ。
 そして、なぜ日本や中国では二次元で描く能力がなかったのか(なぜ西洋では可能となったのか?)という問いが投げかけられている。明確な答えはなく、ただ、西洋美術には高い普遍性があるのかも知れないとだけ述べられている。

 このテーマはさまざまな話に「脱線する」ことができる。
①今でもマンガやアニメなど日本人は二次元での表現が好きだ。「リアルさ」よりも省いたり、誇張したりするのを好むのか。
②生物学的に考えることもできる。動物の世界でも「美人」はいるのか。大陸世界では混血が進むが、島国ではそれほど進まないという点の違いはあるのか。

 大学で教えていた時、授業のはじめの5分位をつかって、いろいろな脱線話をして、学生の笑いを誘ったが、実は授業の本題でも、もっと脱線してもよかったと思う。教育とは物事を一つの視点でなく、自分の想像を膨らませ、思考することが大切だから。
 「脱線する」ことが思考力をつける。

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人がもつ自然の力を

「発酵」というものがずっと気になってきた。もちろん、漬物は大好きだが、ここでは、「自然」が時間をかけてつくってくれる作業の意味に興味がある。古来、人は自分でつくることができないものを「自然」に託して作り出してきた。人はただそれを待つことしかできない。急いではダメだ。ただ「待つ」。
しかし、近代になってスピードや効率が求められ、人は「待つ」ことが少なくなってきた。
発酵を探求している小倉ヒラクさんは醸造家との出会いを次のように書いている。

「「創造的であること」を命題としていた当時の僕にとって、人間以外の理と関わり合いながら生きる人々との出会いは未知との遭遇であり、同時に懐かしいものであった。朝から晩まで人間とだけコミュニケーションすることで完結する生き方はそもそも近代以降の特殊な生き方なのではないか?僕の祖父や醸造家たちのように生きてきた人々は海や森や微生物たちと日常的に関わり、彼らの気配を感じ、人間どうしのそれとは違うコミュニケーション回路を持っていたのではないか?」(『日本発酵紀行』D&Department Project, 2019)

「人間以外の理と関わる」とは、「自然」のリズムを聴き取り、生活に取り入れることだろう。伝統社会では当たり前のこと。それが近代では否定され、「自然」は工学的・人工的に管理されるようになった。
私が危惧するのは人間の身体能力の外部化である。今の教育やビジネスの場でAIの活用が言われるが、それは人が本来もっている能力を削ぎ落すことに他ならない。「自然の理」を感じ取り、感性を研ぎ澄ますこと。これからの教育において、プログラミングの学習だけではなく、人が本来もっている生き物としての能力の向上に力を注ぐべきではないか。

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Happy New Ears !!

Happy New Ears! (John Cage, 1963)
「新しい耳、おめでとう!」

ジョン・ケージが日本のラジオ

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局から新年の挨拶を求められた時に日本の音楽愛好家に贈ったことばだという。

「聞く人に関する限り、問題の核心はどこにあるか。耳を持っているのだから、それを使ってみよう。新しい耳、おめでとう!」(ジョン・ケージ

「聴く人が耳をきちんと使えば、これまでの狭い音楽概念を超えて、あらゆる音を音楽として捉えることができるはずだ。まさに新しい耳の誕生である。」(白石美雪)

白石美雪『すべての音に祝福を ジョン・ケージ 50の言葉』(アルテスパブリッシング、2019)を読んだ。一切弾かないピアノ演奏が有名だが、社会問題にも若いころから関心があったこと、東洋思想も学び、鈴木大拙を尊敬していたことを知った。
政府や教育によって縛られた思考枠をはずし、自然や日常のなかから新しい思想を、自由で豊かな発想をもっと汲み取ろう。
新しい耳、新しい目、新しい感性を持とうではないか!

「小声で静かに」

「私たちが小声で静かになったら、他の人たちの考えを学ぶ機会が得られるはずだから」(ジョン・ケージ
For we should be hushed and silent, and we should have the opportunity to learn that other people think.(John Cage,1927)

稀代の音楽家は、好況に沸く1920年代のアメリカでこう語った。15歳だったケージの弁論大会でのことばである。そして優勝した。汎アメリカ主義への批判が評価されたこと自体もアメリカの知性を感じる。

教育の場において、教師が大声で生徒を叱ることは日常的に見られる。しかし、そこに相手への尊重はない。相手の気持ちを静かに聞く。静かに待つ姿勢を持ちたい。

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