「黙りあい」のさき
「現代人が失いかけているのは「話しあい」などではなくて、
むしろ「黙りあい」だ」(寺山修司)
今や大学の学部の名前にも使われる「コミュニケーション」。
外国語の能力など、多弁であることがいいという風潮がある。
寺山は「黙りとおした」ことのない人に「語りつくせる」はずはないと言う。
「黙る」ということは、話すことがない、ということではなかろう。
話す「必要がない」、あるいは話す「べきではない」ということだと思う。
配偶者も含めて、他人に対して、何を話すか、よく考えてから行動すべきだ。
それは話し相手への礼儀だろう。
寅さんも「それを言っちゃあ、おしまいよ」と言っていた。
一方、現代人は「語りつくす」こともしていない。
SNSなどで返信の速さが重視されるが、その中身は空疎である。
「語る」ことは、ただ「話す」ことではなく、あるまとまった内容を順序だてて
話すことである。よほど話の内容が整い、納得させるだけの中身がなければ、
語りつくすことはできないだろう。
「黙りあい」という状況には緊張感が漂っている。しかし、その長い沈黙のさきに、
誰かの一言によって必ず扉は開かれる。
案外、「話し合い」よりも「黙りあい」のさきの方に
和解の可能性があるのかも知れない。